序文

 バブルの崩壊以来、世の中で不況が叫ばれて久しいが、昨年度の実績で海外渡航者の総数が1300万人を超え、特に昨年は観光目的渡航者だけで初めて1000万人を超えた事でもわかる様に、旅行業界は一見活況を呈している。一昔前に比べれば比較的まとまった休みが取り易くなったおかげと、旅行代金の値下げ競争もあり、ますます海外旅行は身近になったと言えよう。特に最近は下手に国内旅行に出かけるより、近場の海外に出かけた方が安上がりに済む場合すらある。そう言った意味で、これから本格的な一億総海外旅行時代がやって来るのかもしれない。日本人の海外旅行が自由化され、しかし外国旅行なんて限られた特権階級層だけに許された、一生に一度の一大イベントだった頃から僅か二十数年しか経っていないのを考えると、隔世の感がある。
 これだけ海外旅行が身近になったのは、もちろん国際的、社会的背景もあるが、それ以上に旅行会社が積極的に商品を開発し、シーズンともなればスタッフ一同が不眠不休で頑張って来た成果に負うものも大きいと思う。その意味では日本の旅行業界は、日本人の国際化に一役買ってきたのは間違いない事実である。
 筆者は旅行業界に身を置くこと十年、その内の七年間をドイツをベースに、現地での日本人旅行者のアテンダント作業に携わって来た。旅行業界と一口に言っても、職種は様々あるが、筆者が日本に住んでいた頃から徹底していたのは、常に現場でお客様に接する立場を貫いて来た事である。競争原理が働く資本主義の世の中に存在するどんな業種でもそうである様に、現場にこそ全ての情報が凝縮されている訳で、特に旅行の様な無形の経験商品の販売に携わる者については、現場に精通し、現場を知らなければ使い物にならないという筆者の考えは今も変わっていない。
 しかし、丁度十年に達したのを機に、筆者は旅行業界を卒業する事に決めた。その言い訳ともなるのが実は本書なのだが、正直に言うと十年間この業界に身を置いてきて、ほとほと愛想が尽きた。これ以上この業界にいては、他の業種では使い物にならない人間になっていく危機感を覚えたのが三年前、それ以来筆者は悩みながらも旅行業に携わって来たが、今年、十年目を機にとうとう決心した。そして、業界在籍中はとても言えなかった業界への苦言、客への苦言を正直に述べてみる事にした。
 本書を読んでいる業界の内情を知らない一般の方々にとっては、驚きの事実がたくさん登場するだろう。又、業界に精通した方には単なる愚痴を並べた本としか感じないかもしれない。旅行業界をここまで堕落させたのは、業者自身の責任ももちろん免れないが、顧客である客自身である事も忘れてはならない事実である。この事を一般の読者の方々にわかって頂きたくて、筆者は本書を執筆した。この本に込められている苦言の数々は、少なくても十年間メシを食わせて頂いた旅行業界、ひいては一人一人のお客様に対する筆者の愛情だと言う事をわかって頂きたい。

 1995年6月