5. 第三日目 バスはハイデルベルクを出発して、古城街道を経由してローテンブルクへ向かう。この「古城街道」というのも無理矢理作った様な街道で、約1時間半のドライブ中に11の崩れかけたお城が道路際に建っているのが見えるだけ。だからどうした、と言う様な観光街道である。それでもこういった古いお城を見るのが初めてなのであれば、通る価値もあるだろうが、大抵ほとんどのツアーではその前にライン川沿いに建つ古城やハイデルベルク城を見ているのだから、またか、という感じになってしまう。それならハイデルベルクからローテンブルクまでアウトバーンを使ってさっさと移動し、ローテンブルクで自由行動の時間を少しでも多く取ってあげた方がお客にとってはよっぽどいいと筆者は思っている。しかし日本の物知らずなツアー企画者は、現場を知らないのでそういった所に頭が回らない。 さて二時間半後にローテンブルクに着いた。ローテンブルクはロマンチック街道の26の宿場町の中でも一番有名で、一番の目玉にもなっている。周囲を城壁に囲まれ、その中の旧市街は中世そのままの佇まいが残っている人口13,000人の小さな街であり、ドイツを訪れる観光客のほとんどがここに行くのではないかと思われる、観光のメッカでもある。こういった城壁に囲まれた小さな街では、迷子になる心配もないので、もっとゆっくり時間を取ってお客に自由散策の時間を与えた方がいいに決まっている。最近の高いツアー(一般的に言って高いツアーほど日程がゆるやかで、安いツアーは各地を駆け抜けて行く)では、ローテンブルクに2泊するツアーも登場したが、これは正直に評価に値する。筆者達にとってもこの街はつかの間の休息となる。さすがにこの街に暮らす人々は、自分達の街が観光によって成り立っているのを良く認識しているので、ドイツには珍しく観光客に対してフレンドリーである。この街にあるホテルはどこもこじんまりしたペンションみたいなホテルで、それこそ筆者はホテルというホテル全てに泊まった事があるが、この街のホテルで不愉快な思いをした記憶はない。ただ全然問題がないかと言うとそうでもなく、この街にあるお土産物屋同士で、日本人観光客を巡った熾烈で汚い足の引っ張り合いが行われていたりもするのだが、これは直接お客に被害が及ぶ性格のものではないので、不問に付す事にしよう。 昼食後は一路ロマンチック街道を南下して、南ドイツ最大の都市ミュンヘンへ向かう。ロマンチック街道はヴュルツブルクからフュッセンまで、南ドイツを縦断している全長362キロに及ぶドイツ最大の観光街道である。この街道がこれだけ有名になったのは、ネーミングがうまかった事に起因するのではないだろうか。「ロマンチック街道」とはいかにも旅情を誘うネーミングである。この街道が成功して以来、ドイツ国内には○○街道と名の付く観光街道が30以上も登場したが、そのどれもがロマンチック街道にはかなわなかった。これは別に電通や博報堂みたいな広告代理店のクリエイターやコピーライターが頭をひねって考え出したものではなく、昔からこう呼ばれていたのだ。日本人は「ロマンチック街道」などと聞くと、道路の周囲にお花畑やお菓子の家でも建っていそうな雰囲気を想像するが、別に何の事はない、「ロマンチック」とは「ローマの様な」という意味で、これが転じて「ローマへ通じる道」という意味になったのだ。19世紀初頭のロマン派の代表的な画家、カスパール・フリードリッヒやモーリッツ・フォン・シュヴィントらが、特に好んでこの地方の風景画を描いた事からこう呼ばれているとも言われているが、実際には中世の時代に巡礼者や商人が、この道を通ってローマ帝国へと向かって行ったところからついた名前なので、実際には道路の周囲は畑ばっかりである。 こんなところから、お客の大半は一時間も走るとほとんどが居眠りを始める。いい加減な添乗員の中には、ここを走る時は車内に音楽を流してわざとお客を寝かしてしまう人もいるらしいが、しかし筆者に言わせればここがプロとしての腕の見せ所である。別に寝たい人は寝てればいいが、折角あの有名な「ロマンチック街道」を走っているのだから、いささかもったいないと思う。景色が単調だからこそ、その一見何でもない景色の中に物語を作るのがガイドの仕事だと筆者は考える。もちろんこれは筆者の個人的考えであって、そうではないという反対意見をお持ちの方もいらっしゃるであろう。もちろんそれはそれで一向に構わないのだが、少なくとも筆者はこのロマンチック街道4時間半のドライブ中、しゃべり続ける事に命を賭けていた。 旅行とは起承転結である、というのが筆者の基本的な考えである。長いスパンでは自宅を出てから再び自宅に戻るまで、短いスパンではその一日一日の中にも、うねりのような波を作ろうと心がけていた。いささか筆者の独りよがりになるが、見せたい所、見るべき所では徹底的に盛り上げて、どうでもいい所では寝かせる、こういったメリハリがないと、特に移動が多い旅行では飽きてしまいかねない。少なくとも筆者が客だったら飽きると思う。こんな事を長年やっていたので、歌手でもないのに筆者は喉にポリープが出来た事さえある。いずれにしても「ロマンチック街道」はしんどい街道であった。 いよいよミュンヘンに着いた。ミュンヘンは人口130万人で南ドイツ最大の都市、全ドイツの中でも三番目に大きな都市である。オリンピックが開かれた事でも知られているこの街は、大都市でありながら非常に緑が多く、フランスの影響を色濃く受けた影響から街並みも華やかで、ずっとド田舎を走って来た旅行者にとっては、久しぶりの華やかさである。しかし、そこに暮らす人々はその風景とは裏腹に、田舎者特有の変な地域意識が顕著で、頑固で融通が利かないドイツ人気質が最も色濃く感じられる所でもある。ここは昔バイエルン王国の首都だった街、現在ではバイエルン州となっているが、今でも自分達はドイツ人じゃない、バイエルン人だと思っている人達も少なくない。その証拠に、特にミュンヘン市内では、ドイツ国旗が掲げられる事は少なく、代わりに水色と白の菱形模様によるバイエルン国旗、現在でのバイエルン州旗が掲げられているのを良く目にする。筆者はドイツの中でもバイエルンが特に嫌いである。よそ者を排他的に扱う田舎者特有の態度は判るが、その態度があまりにも日本人を馬鹿にしたものだからだ。断っておくが、バイエルンでは日本人だけが嫌われている訳ではない。要はバイエルン人以外は皆よそ者、例え同じドイツ人同士でも他の地域のドイツ人はよそ者扱いされる。いささか被害妄想気味かもしれないが、彼らが日本人を見る目には「何だか知らんがつい最近急に金持ちになって集団で俺達の国を荒し回る山猿」という敵意が感じられる。筆者も最初からバイエルンが嫌いだった訳ではない。しかし七年間の滞在中に三回やった警察沙汰になった大喧嘩の相手は全部バイエルン人だった。住んでいれば腹が立つ事は日常茶飯事のドイツなので、いちいち喧嘩してたらこちらの身がもたないが、いんねんをつけてくる時の、あのヒトを馬鹿にした目つきだけは大和民族の威信にかけても許せなかった。 バイエルン地方ではドイツ語も「バイエルン語」と呼ばれる程訛っており、こんにちわ、の挨拶も標準ドイツ語の「グーテンターク」と違って「グリュースゴット」となる。バイエルンではこちらが「グーテンターク」と挨拶しても必ず「グリュースゴット」と言い直される。しかし、もし間違って例えばフランクフルトで「グリュースゴット」と言おうものなら、それを聞いたドイツ人は聞こえなかった振りをするか、もしくは笑いを噛み殺した表情になる。お客がたくさんいる大きな商店で言ってしまった場合などは、周囲の目が白くなる事請け合いだ。つまりバイエルン人も、一歩自分達の地域を出て行けば、徹底的に田舎者扱いされており、「バイエルン」と「田舎者」は同義語とされているのだ。 筆者の知るフランクフルトの旅行会社に、一人のバイエルン人男性が就職した事があった。しかし彼は半年程で耐えられなくなり、会社を辞めてバイエルンに帰ってしまった事がある。日本でも出身地域によって偏見や差別をする傾向があるが、ドイツのそれはもっと顕著である。 ミュンヘンの夜は大抵ビヤホールで夕食となる。中でも一番有名な「ホフブロイハウス」でバイエルンショーを鑑賞しながら、というパターンが圧倒的に多い。ご存知の方も多いと思うが、このビヤホールはヒトラー率いるナチスが総会を持った場所としても有名である。建物は三階建てで、一階は普通のビアホール、二階は普通のレストランと宴会用個室、そして三階が体育館の様な大きなホールになっており、ここでは毎晩夜七時から夜半過ぎまでショーが繰り広げられている。収容人員は軽く千人を超えるこのホールも、日によってはお客のほとんどが日本人、という事がある。こうなるともう「ライオン」や「ミュンヘン」辺りで飲んでいるのと何ら変わらない。そしてこのバイエルンショーというのが見ものである。ショーと言っても専属バンドによる民謡ショーと民族舞踊の披露なのだが、エンタテーメント性に欠けるドイツ人らしく、誰もちっとも楽しそうな顔をしてやっていないのがおかしい。ステージ上でバイエルンの膝叩き踊りやスプーン叩き踊りを披露しながら、その顔は苦虫を噛み潰した様な表情をしている。誤解しないで欲しいが、筆者は別に悪口を言っているのではない。これはこれでとってもドイツらしくていい、と言っているのだ。ちなみにこのビアホール、昔はとても接客態度が悪く、料理もまずかったが、数年前にミュンヘン在住の日本人ガイドと旅行会社が連名で抗議した結果、最近は嘘の様に接客も丁寧で、料理の質も上がってきている。ミュンヘンにはもう一つグループがよく使う「ハッカーケラー」というビアホールがあるが、ここは現在も最悪である。日本人客はステージが見えない位置に座らされるし、従業員の接客態度もひどい。ひどいと言うのは態度が悪いという意味だけではなくて、はっきり言って馬鹿なんじゃないかと思える程である。注文した飲み物の個数は間違えるわ、追加注文は忘れるわ、料理は忘れるわ、と、もう話にならない。筆者も何度ここで料理を食べ損なったことか、愛想良くニコニコ振る舞えとは言わないが、せめて基本的な仕事くらいきちんとやってもらいたい、また、きちんとやれる人間を雇って欲しいものだと思う。 ミュンヘンの夜と言えば、忘れられない事件があった。その日も夕食がホフブロイハウスだったので、バスから降りる時にドライバーに「だいたい○時○分頃戻るからね」と言い残して筆者らは夕食に向かった。ここではバスを少し離れた場所に停めるしかなく、大抵ドライバーはここにバスを置いて、後からホフブロイハウスへ来るか、若しくは近くの別のレストランで勝手に食事をするか、ミュンヘン在住のドライバーだったらそのまま一旦家にでも帰って、指定した時間に再び迎えに来るかのどれかである。その日のドライバーはミュンヘンの人だったので、きっと家にでも帰るのだろうと思って、いつもの様に迎車の時間を伝えた訳だが、その日の店の混み具合やウエイターの質によっても左右されるので、食事が終わる時間なんて事前に正確に計算出来るものではないが、筆者は経験から2時間半後を指定しておいた。その日は幸い食事自体のサーブは早かったのだが、お客が盛り上がってしまったせいで、ドライバーに伝えた時間より15分程遅れて駐車場に戻った。すると待っていたドライバーは筆者らが遅れた事に対して腹を立てており、バスに戻った途端に凄い剣幕で怒られた。確かに遅れたのは悪いが、前記の通り食事時間なんて前後する事はよくある事だし、ましてや15分というのは筆者は許容範囲だと考えていた。とにかく凄い剣幕なので最初は下手に出て謝っていた筆者も、こちらが謝っているのにあまりにしつこく追求するので、後半は聞き流していた。するとそんな筆者の態度に更に腹を立てたドライバーは、まだお客が半分しか乗車していないにもかかわらずドアを閉めると、エンジンをかけて走り出そうとした。これにはさすがの筆者も驚いた。その夜は雨が強く降っていたので傘をさしてバスのすぐ横に立っていたのだが、バスが動き出したので思わず筆者は傘を投げ捨てて、バスの前に付いているバックミラーの支柱にしがみついた。そして空いている方の手でドアのガラスを叩きながら直ちに停まる様に怒鳴ったが、そのドライバーは筆者を無視して更にスピードを上げると、ハンドルを左右に切って筆者を振り落とそうとした。この時点で完全に切れていた筆者は、とにかく振り落とされない様に支柱にしがみつきながら足でドアのガラスを蹴破ってやろうと尚も抵抗したものの、バスのガラスはそう簡単に割れるものではない。そこから200メートル位も走っただろうか、とうとうそこで振り落とされてしまった。あまりに短時間の間の出来事で事情の良く呑み込めないその場に残されたお客は、ポカンとしながらその場に立ち尽くしていた。幸い大きな怪我はなかったものの、全身ズブ濡れになった筆者は、とにかくすぐに残りのお客をタクシー乗り場まで連れて行き、そこから何台ものタクシーに分乗してホテルへ向かった。筆者らがホテルに着くと、バスはもう既に帰ってしまった後だったが、そのバスに乗って行ったお客が全員ロビーで待っていてくれた。この先発隊も事情が全然判らなかったみたいで、何だか恐いバスに乗ってしまったと思って、ホテルに着くまでの間、酔いも覚めてずっと無言で小さくなっていたらしい。まったくもってこの時のお客には気の毒な事をしてしまった。その翌日、いくらドイツとは言え、そのドライバーはバス会社を解雇されたのは言うまでもない。 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