● ● ● 第三章 まったく腹が立つ旅行業界 ● ● ●


1. 無知人間の集団

 前述の通り、筆者は旅行業界在籍中、常にお客に接する第一線の現場にいた。旅行の様な無形の経験商品では、顧客がいる現場が一番重要で、又、一番楽しいのではないかと考えたからだ。しかし、その重要な筈の現場の事を全然知らない、知ろうともしない業界人が多いのには驚かされた。
 旅行には色々な形態があるのは既に述べたが、パンフレットによって一般参加者を募るパッケージツアーでは店頭の販売員が、企業などのインセンティブ旅行では、その主催者との折衝をする営業マンが、悲しきかな現場を全然知らない。旅行業界の悲劇はこれに始まってこれに終わると言っても決して過言ではない。
 自分自身では行った事がない、あるいは以前に卒業旅行で一度行った事がある、程度の知識しか持たない人間が、堂々と商品を売っているのである。例えるなら電気屋さんで、ビデオがどういう物か全く知らない人間がビデオを売っている、又、パソコンショップで、キーボードすら満足に叩けない人間がパソコンを売っているのと同じ事だ。マニュアルに記載されている事は説明出来るが、お客に何か質問されるともうとんでもない説明になる。日本の販売サイドが全てこの調子であり、こういった販売員に売られて送り出されて来るお客は、現場が全然違う事に戸惑い、それは往々にして不満となって残る。当たり前の話である。お客側に確固たる情報がない以上、その希望を細かく聞き、情報に基づいてそれに出来るだけ近い商品を勧めるのがプロの販売員というものである。しかし専門知識のない販売員では、お客の希望に沿う商品なんて選定出来る訳がない。
 旅行業界は細分化されている事は以前に述べた。日本の代理店は実際には販売するだけで、現地で手配を行っているのはツアーオペレーターである事も述べた。もちろん販売に際して日本の代理店はツアーオペレーターから様々な現地情報を入手している訳であるが、この現地の専門家である筈のツアーオペレーターも、信じられない事に驚く程現場を知らない。
 ヨーロッパ各地にある日本のツアーオペレート会社は、もちろん日本国内に営業所を持っている。ここがホールセラーや営業担当者との窓口になっているのであるが、実はこの日本のツアーオペレーターは、現地の最新情報を持っていない。
 例えばツアーを企画する時に、移動時間を地図の上で計算する。距離が何キロだから、何時間で移動出来るだろう、と単純に計算する。しかし、実際の移動時間なんて季節によっても、又、曜日によっても大きく異なるのだ。実際にはバスで移動するんだという事なんてすっかり忘れて、自分が以前に視察に行った時に乗用車で移動していた経験で計算する。だから、筆者らが担当する直前に会社から渡される最終日程表にも、ちょっと目を通しただけですぐに無理だと判る様なとんでもない日程表が平気で送られて来る。当然お客はそれを信じてやって来る訳で、筆者の様な現地の人間が「これは無理ですよ」と言っても後の祭り、挙げ句の果てには「お前が面倒な事をやりたくないだけだろう」と誤解される。
 お客は勝手な事を言うのが商売である。しかしお客を大事にするあまり、出来る事と出来ない事があるのを説明しないのは、そんなのサービスでも何でもない。企画段階であれば、お客の言う事に対して「それは無理だが、こういう方法はどうか」といった対処も出来るが、既に現地に来てからこんな事を言われても、お客が立腹するのも当然である。

 以前、ベルリンの壁が崩壊し東西ドイツが統一して、世界的にベルリン観光がブームになった時期があった。この時にはフランクフルトからベルリンに行く国内線の飛行機も常に満席状態で、ベルリンのホテルの確保に至っては、至難の業と言われた時代だった。筆者はこの時に日本からやって来た個人の旅行者のアテンドを担当した事があった。日本から送られて来たそのお客のツアーデータを見ると、成田からフランクフルトに来る所までしか記載されておらず、フランクフルトのホテルも予約されていなかったので、不審に思った筆者は、そのお客が到着してミートしてすぐに、その先のツアースケジュールを聞いてみた。すると、そのお客はやはりベルリンに行く事を希望しており、申し込んだ旅行代理店の担当者に「日本からではベルリンのホテルは確保が難しいので、フランクフルトに着いたら現地係員がいますから、その者に依頼して下さい」と言われて来たのだそうだ。事前に国内線もホテルも全く予約しないまま日本を出発する事に不安があったそのお客は「本当にそれで大丈夫なのか」と確認したらしいが、それに対してもその担当者は「大丈夫です、現地に行けば何とかなりますから」と答えたと言うのだ。これを聞いた筆者は開いた口が塞がらなかった。日本から難しい予約は、現地でやったって難しいのだ。ましてやそれを空港に出迎えに来た一係員にやらせようなんて、とんでもない事だ。第一その出迎えの仕事では、そんな手配の面倒を見るだけのギャラを筆者らはもらっていない。そうは言ってもそのまま突き放す訳にもいかず、その時筆者はオペレーターに救援を依頼して、時間はかかったものの何とかホテルを確保し、そのお客をベルリンに送り出した。

 又、日本の某村議会議員の皆さんが、ドイツのバーデンバーデンにある有名なクアハウス(温泉保養施設)を視察に来た事があった。何でも自分達の村に、村興しの一環としてドイツの様なクアハウスを建てる予定なのだそうだ。もちろんそういう事なら視察は大歓迎なのだが、その時の村議会議員の皆さんのツアースケジュールは、バーデンバーデンに夜到着し、翌朝早くには別の街へ出発する事になっていた。これを読んだ筆者は単なる観光旅行なのだろうと思っていたのだが、いざ今晩バーデンバーデンへ行く、という日の午後の自由行動の時間に、お客からこの視察の話を初めて聞いたのだ。これにも筆者は驚き、このスケジュールでは議員さん達が希望している視察なんて全く出来ない事を説明すると、議員さんは全員怒り出してしまった。当たり前である。公費で視察にやって来て、それが出来なかったら責任問題である。もちろん日本での受付サイドはこういった事情を知っていた筈であるが、それが中間業者を何社も経由する内に単なる観光旅行に化けてしまったのだ。これだって、日本の受付サイドが、依頼したツアーオペレーターから送られた最終日程表を事前に良く確認すれば、出発前に訂正が出来た筈なのに、それをしないから現場で大問題に発展するのだ。この時は翌日以降のスケジュールを大幅に変更して、無事バーデンバーデンの視察は出来たので事なきを得たが、一度決められた事を変更するのは、ドイツでは皆さんが考えている以上に大変な事なのだ。

 日本のツアーオペレーターで働く人間は、年に一度は現地の視察にやって来る。これ自体は誠にもって歓迎すべき事なのだが、来る人間が問題なのだ。一番重要な末端でコンピュータを叩いている人や、営業担当の人間ではなく、幹部クラスがやって来るのだ。はっきり言わせて頂くと、こんな人間が視察に来ても何の意味もない。現地のオペレーターにとっては、日本の親会社の幹部が来るのだからどうしてもVIP待遇になってしまう。空港には快適なリムジンが用意され、ホテルに行ったってレストランへ行ったって、普段大量のお客を送り込んでくれている会社の幹部が来たとなれば、どこもかしこもマネージャークラスが出迎えてうやうやしい対応になるのは当然である。しかし一般のお客が行くととてもこんな対応ではないのだ。お客を連れた筆者がいつ行っても腹の立つ対応しかしないホテルが、これが同じホテルかと疑う程に、この時ばかりは手のひらを返した様な素晴らしいホテルになっている。
 街から街への移動もそうだ。速度無制限のアウトバーンで、100キロまでしか出してはいけない観光バスと違って、幹部を乗せたベンツのリムジンは、200キロ以上のスピードでかっ飛んで行く。おまけにリムジンには快適なエアコンが装備されているが、ドイツの観光バスにはまだほとんどエアコンが装備されていないのを知らない。  これでは何の為の視察かと筆者は言いたい。本当に視察をしたいのなら、幹部連中じゃなくて、日本の現場で働いている人間に、一般のパッケージツアーに潜り込ませて参加させるのが一番である。自分達の商品を買ってくれているお客が、現地でどういう扱いを受けているのか、思い知るだろう。

 筆者は数年前、自分の両親をドイツに招待した。その時にも前述の様ないわゆるよくあるゴールデンコースを巡ったのだが、筆者の経験を生かして厳選したホテルとレストランしか使わなかった。その結果、彼らは今でもドイツはいい所だと思っているし、ドイツの料理はおいしいと信じて疑わない。もちろん団体と個人旅行の違いはあるにせよ、やろうと思えばこういった手配だって出来るのだ。一体一般のツアー客の中に、こういった感想を抱いて帰った人が何人いるのであろうか。

 筆者は現地で在職中、こういった現場の生の情報を各ツアーオペレーターに対して出来る限り伝えたつもりだ。しかし、そのほとんどは日本にまで情報として流れず、その結果十年一日の如く今日も同じトラブルが各地で発生している。そのトラブルに巻き込まれているのは、お金を払ってくれているお客なのだ。顧客をバカにする業界に未来は決してない。